里見氏の歴史

里見氏は、清和天皇から始まる源氏の新田氏一族から分家し、里見義俊を祖として上野国碓氷郡里見郷(群馬県高崎市)を拠点に長い間活動していました。  そして、里見一族は全国各地に広がり、里見義実が安房国に登場したことが房総里見氏の始まりです。  その後房総の覇権をめぐって戦国乱世をくぐり抜け、第五代義堯は、子息義弘とともに里見氏の全盛期を築きあげました。  第九代義康の時代、関ヶ原の戦いでは徳川方にあって下野宇都宮(栃木県)に出陣し、常盤国鹿島郡(茨城県)に三万石を加増され、安房と合わせて十二万石の大名となり、関東では最大の外様大名に成長していきました。また、義実の時代から里見氏は里見水軍として東京湾の制海権を争っていました。  義康の死後、第十代忠義は徳川幕府の重臣・大久保忠隣の孫娘を室に迎えましたが、忠隣の失脚で、伯耆国(鳥取県倉吉市)に配流されてしまい、八年後に死去、継嗣なきため里見氏の歴史は終わりました。

①里見義実(よしざね)
生没年不詳。房総里見氏の初代。鎌倉公方足利持氏の近臣刑部少輔家基の子とされるが、美濃里見家出身の可能性も指摘されている。享徳の大乱で安房国の上杉派掃討を委ねられ、白浜を手始めに安房国の上杉派を駆逐したとされる。白浜城・稲村城を拠点に、安房国の勢力を指揮下においたと思われる。

②里見成義(しげよし)
生没年不詳。江戸時代に作成された軍記物語や系図では、義実の子として房総里見氏の二代目とされる。まだ実在が確認されていない。

③里見義通(よしみち)
生没年不詳。義実の子と考えられている。字は太郎。上総介・上野入道・民部少輔と称す。房州屋形・刺史と呼ばれ、安房国の国主の地位にあった。稲村城に居城する。また古河公方足利政氏に仕えて副師と自称した。小弓公方足利義明に従い、永正17年に関宿攻撃の指示を受けている。その後白浜城に隠居したと思われる。

里見実堯(さねたか)(~1533)
義通の弟。義実の子と考えられている。兄義通の次将として北郡に討入り、妙本寺要害の軍代になる。金谷城を拠点に北郡に勢力をもったようである。水軍をおさえていたと思われ、岡本からの水軍出陣について義豊から相談をうけている。天文2年に甥義豊に殺害された。

④里見義豊(よしとよ)(~1534)
義通の子。父義通健在の永正9年から、当主の権限を行使している。鎌倉の禅僧などとも交流し文武兼備と讃えられている。大永頃に義通が隠居して家督を継ぎ、稲村城を居城にした。北条氏と対立して鎌倉へも乱入した。勢力を伸ばしてきた伯父実堯と正木通綱を、天文2年に殺害。翌年実堯の子義堯に滅ぼされた。

⑤里見義堯(よしたか)(1507~1574)
実堯の子。天文3年に北条氏の支援を得て義豊を滅ぼし、嫡家から家督を奪った。天文6年に北条氏と手切れし、以後40年におよぶ対立を続けた。上総へ進出してからは久留里城を本拠とし、三浦・下総へも進出して勇名をはせた。上杉謙信と組んで北条氏と攻防を繰り返すなか、上総支配を固めていった。

⑥里見義弘(よしひろ)(1525~1578)
義堯の子。佐貫城を居城とした。足利義明の娘や足利晴氏の娘を室にした。父義堯とともに三浦・下総を転戦、公方家の子息たちを保護して、北条氏と伍して戦った。上杉謙信が北条氏と同盟すると、武田信玄と結んで独自の外交で北条氏に対抗したが、天正5年に北条氏政と和睦した。しかし安房の義頼と対立し、義頼と梅王丸との継嗣問題を残したまま、晩年中風を煩って病死。

⑦里見梅王丸(うめおうまる)
生没年不詳。義弘の子。母は足利晴氏の娘とされる。父とともに佐貫に在城した。義弘の死によって上総の遺領を相続し、義弘の鳳凰の家印も継承した。天正8年、義頼に佐貫城を落されて岡本に幽閉された。元和8年に没したとされている。

⑧里見義頼(よしより)(~1587)
義弘の子。岡本城に居城して、義堯から安房の支配を任されたが、死後父義弘と対立する。義弘の没後、安房分国を保持し、後継者の梅王丸を捕らえて西上総を領有、続けて東上総の正木憲時も滅ぼして上総の一円支配にも成功した。しかし上総へ移ることなく、安房で領国支配をおこなった。天下人になった豊臣秀吉とも交渉をはじめている。

⑨里見義康(よしやす)(1573~1603)
岡本城から館山城に本城を移した。豊臣秀吉の小田原攻めに参加するも、上総領を没収されて安房一国の領主となる。以後秀吉の臣下として伏見に屋敷を構え、朝鮮出兵には九州名護屋まで出陣した。関が原合戦の際には徳川方として宇都宮へ出陣し、恩賞として鹿島3万石をうけ、12万石の大名となる。

⑩里見忠義(ただよし)(1594~1622)
義康の子。安房守。従四位下侍従。父義康の死により10歳で家督を相続。館山城を居城とし、一族・重臣の補佐で政務を行なった。将軍秀忠の御前で元服し、一字を請けて忠義と名乗った。幕閣大久保忠隣の孫娘を室に迎えたが、忠隣の失脚に連座して改易。伯耆国倉吉へ配流された。倉吉郊外の堀村で病死。29歳。